SMと主従の目的
SMを本来の加逆と被虐の偏向性癖とすれば、命令者と受令者、支配者と服従者などの身分や立場の違いというのは後から発生した便宜上役割なのではないかと思っています。
よって、今のSMは被虐と加虐による性的興奮・快楽を横軸とすれば、支配と服従という主従関係は縦軸として二次元的に展開されていると思います。
つまり「支配したい加虐者(一般的なS)」「服従したい被虐者(一般的なM)」に加えて「服従したい加虐者」「支配したい被虐者」、さらに「主従関係のない加被虐者」「加被虐嗜好のない支配者・従者」などもそれで説明がつきます。
さて、何事も目的と手段で物事を考えるのですが、SMと主従も目的で考えると、わかりにくいことがわかるようにも思えました。
本来のSMからすれば、やはり目的は「加虐被虐による性的興奮・快楽」であって、それはサディストとマゾヒストがパートナーとしてお互い求めるものを与えられる相手とプレイすればよく、そこはあくまで対等であり、立場や身分の違いというものは目的外ということになるでしょう。
だとすれば、Mももちろん自我に基づき要求していいわけで、エゴがあってあたりまえでエゴマゾという侮蔑にはあたらないはずです。
片や、主従の目的というのは、masterとslaveという役に分かれて命令と実行、支配と服従自体であるはずです。そもそも奴隷と自らなるからには、奴隷制度時代の奴隷という身分に堕ち、拒否権のない立場として服従することを意味している「はず」。
だから、どんなことであれ、抵抗のある行為だとしても、そこに服従すること自体が目的であり快楽であるならば、プレイ自体がどうであれ命令されていること自体に快感を感じ精神が満たされるはずです。
それが快楽でなくなるときは、その主に対する服従心が薄れ、服従すること自体が快楽でなくなるときであるはずです。
しかし、しつこく「はず」と言っているのは、そうでない主従関係が実に多いと思うからです。
服従するといいながら、気持ちいい命令は従順なふりをしつつ、気持ちの良くない、抵抗のあることなら拒否、それを詰ればとっとと主従を解消し、命令に服従せずにお仕置きという快楽を要求するような関係で、とどめは服従しながら気持ちよく逝かせてくれなければ「ヘタクソ」という風潮は、かつてありましたが今もあるのでしょうか。
それは、主従というものが目的ではなく、あくまでロール(役割)をプレイ(演じる)ことで加虐被虐の快楽を増幅させる手段となっているからに過ぎません。
ということは、エゴマゾ、というS側とM側のミスマッチは、支配を目的とするSと、快楽を目的として主従を手段としているMのSMに対する見解の相違から起こるのではないか、と。
S側は加虐しながらも、相手の服従を関係の目的として求めるため、快楽やエゴを求めるMに対して苛立ちを覚えますが、もともと快楽や精神の充足を求めるための形としての奴隷であれば、服従することよりも自分の求めるものが優先して当然と言えば当然となります。
よって、S側は、エゴでないマゾであり奴隷を求めるのであれば、まずMに対してその目的を見定め、目的が自分に対しての服従自体であるのか、そもそもM自信の快楽を越える服従する動機を自分が持っているのか、与えられるのかを把握しなくてはいけません。
それがなく、調教によりM自身の快楽や欲求を、自分に対する服従心が超えていくように変えていくというのであれば、何をもって目的を置き換えることができるのかを把握し、それを目的とする手段としての調教をしていかなくてはいけないということになります。
そうは言っても、目的を替えるだけの調教を私が出来るかどうかは能力と忍耐力的に疑問でありますが・・・笑
よって、今のSMは被虐と加虐による性的興奮・快楽を横軸とすれば、支配と服従という主従関係は縦軸として二次元的に展開されていると思います。
つまり「支配したい加虐者(一般的なS)」「服従したい被虐者(一般的なM)」に加えて「服従したい加虐者」「支配したい被虐者」、さらに「主従関係のない加被虐者」「加被虐嗜好のない支配者・従者」などもそれで説明がつきます。
さて、何事も目的と手段で物事を考えるのですが、SMと主従も目的で考えると、わかりにくいことがわかるようにも思えました。
本来のSMからすれば、やはり目的は「加虐被虐による性的興奮・快楽」であって、それはサディストとマゾヒストがパートナーとしてお互い求めるものを与えられる相手とプレイすればよく、そこはあくまで対等であり、立場や身分の違いというものは目的外ということになるでしょう。
だとすれば、Mももちろん自我に基づき要求していいわけで、エゴがあってあたりまえでエゴマゾという侮蔑にはあたらないはずです。
片や、主従の目的というのは、masterとslaveという役に分かれて命令と実行、支配と服従自体であるはずです。そもそも奴隷と自らなるからには、奴隷制度時代の奴隷という身分に堕ち、拒否権のない立場として服従することを意味している「はず」。
だから、どんなことであれ、抵抗のある行為だとしても、そこに服従すること自体が目的であり快楽であるならば、プレイ自体がどうであれ命令されていること自体に快感を感じ精神が満たされるはずです。
それが快楽でなくなるときは、その主に対する服従心が薄れ、服従すること自体が快楽でなくなるときであるはずです。
しかし、しつこく「はず」と言っているのは、そうでない主従関係が実に多いと思うからです。
服従するといいながら、気持ちいい命令は従順なふりをしつつ、気持ちの良くない、抵抗のあることなら拒否、それを詰ればとっとと主従を解消し、命令に服従せずにお仕置きという快楽を要求するような関係で、とどめは服従しながら気持ちよく逝かせてくれなければ「ヘタクソ」という風潮は、かつてありましたが今もあるのでしょうか。
それは、主従というものが目的ではなく、あくまでロール(役割)をプレイ(演じる)ことで加虐被虐の快楽を増幅させる手段となっているからに過ぎません。
ということは、エゴマゾ、というS側とM側のミスマッチは、支配を目的とするSと、快楽を目的として主従を手段としているMのSMに対する見解の相違から起こるのではないか、と。
S側は加虐しながらも、相手の服従を関係の目的として求めるため、快楽やエゴを求めるMに対して苛立ちを覚えますが、もともと快楽や精神の充足を求めるための形としての奴隷であれば、服従することよりも自分の求めるものが優先して当然と言えば当然となります。
よって、S側は、エゴでないマゾであり奴隷を求めるのであれば、まずMに対してその目的を見定め、目的が自分に対しての服従自体であるのか、そもそもM自信の快楽を越える服従する動機を自分が持っているのか、与えられるのかを把握しなくてはいけません。
それがなく、調教によりM自身の快楽や欲求を、自分に対する服従心が超えていくように変えていくというのであれば、何をもって目的を置き換えることができるのかを把握し、それを目的とする手段としての調教をしていかなくてはいけないということになります。
そうは言っても、目的を替えるだけの調教を私が出来るかどうかは能力と忍耐力的に疑問でありますが・・・笑
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